前回は、資生堂がパーソナルケア事業を1600億円で事業譲渡するに至った事情について見てきました。
コロナ禍の影響をもろに受けて7年ぶりの最終赤字を計上した資生堂にとって、経営の集中と選択は喫緊の課題です。
パーソナルケア事業は、TSUBAKIやuno(ウーノ)など私たち消費者にもなじみのあるブランドを抱えているとはいえ、売上構成で見れば全体の10%程度。この事業を譲渡して得られる1600億円を活用してデジタルトランスフォーメーション(DX)を推し進め、基幹事業の化粧品事業にリソースを集中投下させる——それが資生堂の戦略のアウトラインです。
では本稿では、資生堂がDXを図ることでどんなことを実現しようとしているのか、詳しく見ていくことにしましょう。
資生堂の狙いを読み解くキーワードは「OMO」
今回、資生堂がパーソナルケア事業の譲渡に続いて発表したのが、アクセンチュアとの戦略パートナーシップ提携によるDXの強化です。自社で内製するのではなく、合弁会社の設立も視野に入れたアクセンチュアとの戦略的パートナーシップという形をとったのはおそらく、外部の知見を取り入れることで積極的に「知の探索」を行おうという考えなのでしょう。
と、ここで素朴な疑問が湧きます。資生堂の主力商品は化粧品ですが、化粧品をどうやってDXさせるのでしょうか?
これを読み解くうえでのキーワードが「OMO(オーエムオー:Online Merges with Offline)」です。OMOとは、オンラインとオフラインを融合させて一体化し、これをオンラインにおける戦い方や競争原理として捉えることを言います(※1)。OMOをより深く理解するために、ネットビジネスの変遷を駆け足で振り返ってみましょう。
2000年代:ECの登場
インターネットビジネスの先駆けと言えば、2000年代に普及した「EC(Eコマース)」ですね。初期の楽天やアマゾンが代表的です。ECが登場したことで、家にいながらにしてネットで商品を購入できるようになりました。
この延長で、音楽、ソフトウェア、ネットバンキングサービスといったデジタル情報のやりとりがネット上で急速に増えることになりました。
2010年代前後:O2O
2010年前後になると、物理的なモノ・サービスをネット上のプラットフォーム経由で提供するサービスが登場しました。旅行業のAirbnb、タクシーのUber、フードデリバリーのUber Eats、メルカリなどが代表例です。これらのサービスは「O2O(Online to Offline)」と呼ばれています。
O2Oでは、オンラインの世界がオフラインの世界にかなり近づいたと言えます。デジタルの世界には、ネットワーク、フリー(無料)、パーフェクト(完全)、インスタント(瞬間)といった特徴があります(※2)。このオンライン(デジタル)の利点をオフラインにまで持ち込んだ点がO2Oの特徴です。
従来のホテル、タクシー、料理などオフラインで存在しているものは、空室、アイドリングタイム、そして在庫の繰越しなどに限界があるというデメリットを抱えていました。
しかし、スマートフォンが普及したことで状況は変わります。オフラインの物理的なモノをプラットフォーム上でオンライン管理できるようになり、遊休資産を最大限活用できるようになったのです。O2Oを通じて、個人でも容易にサービス提供者になれるようになったことも特筆すべき点です(※3)。
2010年代後半:OMO
このO2Oの進化版とも呼ぶべきものが「OMO」です。OMOのベースには、「アフターデジタル」という世界観があります(図表1)。
(出所)藤井保文、尾原和啓『アフターデジタル』(2019年、日経BP)より。
ビフォーデジタルでは、オフラインのリアル世界が中心で、付加価値的にデジタル領域が広がるというものでした。例えば「本は基本的に書店で買うけれど、たまにネットでも購入する」という感じです。
しかしデジタルツールが普及したことで、リアル世界がデジタル世界に包含されるという状況が生まれつつあります。これがアフターデジタルの世界観です。
アフターデジタルの世界観では、ネット通販のように「インターネットをどのようにしてビジネスに活用するのか」という思考様式ではありません。「常時オンラインに接続している環境が前提で、リアルな場所や行動はどうあるべきか」を考えることになります。換言すると、オフラインが存在しない状況とも言えます(※4)。
資生堂が考える「化粧品×OMO」
話を資生堂に戻しましょう。同社は化粧品販売をどのようにOMOに変えていこうとしているのでしょうか?
従来の化粧品販売では、店舗を訪れた顧客を美容部員(化粧品販売員)が対応し、化粧品を勧めて購入してもらい、時にはネットでも買ってもらうというのが一般的な流れでした。
これは「リアルで顧客と接点があり、たまにオンラインでも顧客と会える」というビフォーデジタル的な捉え方です。あくまでオフラインが前提で、たまにネットも利用するということですね。
では、この一連の化粧品販売の流れをOMOにするとどうなるのか。資生堂の決算説明資料によると、今後は図表2のような形を描いているようです。
(出所)資生堂「2020年実績(1-12月期)および2021年見通し」。
まずは常時オンラインを前提として、顧客ID管理を行うことでCRM(Customer Relationship Management)を実装し、顧客を店頭へと促します。店頭では非接触肌測定などのデジタルサービスを使ったカウンセリングを実施。
ひとたび商品を購入してもらったら、その後は長期愛用者向けのポイントプログラムや、ネットでの購入を促進させます。そして、常時オンラインで顧客と接点を持ちながらも、再び実店舗へと顧客を誘引して……というサイクルです。
ここまでお読みになったところで、「DXといっても、この程度のことならすでにやっているのでは?」と思われた方もいるかもしれません。そこで資生堂の狙いをもう少し解像度高くイメージするために、こんな思考実験をしてみましょう。
アフターデジタルの顧客体験とは
あなたが休日に街を歩いていると、百貨店に入っている化粧品店舗からメールが届きました。
もしこのメール内容が、不特定多数の顧客に向けたただの新商品紹介ならばビフォーデジタル止まりです(※5)。でもアフターデジタルの世界なら、そのメールにはいつもあなたを担当してくれている美容部員からのコメントが添えられているかもしれません。例えばこんなふうに——
「先日お越しいただいてからお時間が経ちましたね。そろそろお化粧品の買い足しの時期かと思います。現在お使いの商品を購入される場合は、以下のECサイトが便利です。
もし新作にご関心がある場合や、以前ご購入いただいたものがお肌に合わなかった場合は、ぜひご相談ください! ウェブ面談でもご来店でもどちらでもかまいません。○○さんにお会いするのを楽しみにしています」
ここでのポイントは、購入のデータ分析を通じたパーソナライズはもちろんのこと、店舗および美容部員といった人的リソースを最大限活用して、顧客にオンライン/オフラインを問わず満足してもらえるサービスを提供することです。
これがもし、EC販売と店舗販売の連携がうまくとれていないとどうなるでしょうか? ある商品を気に入って数年来使い続けているのに、送られてきたメールで自分がまったく興味のない商品のPRをされたら、顧客はうんざりするでしょう。こんな状態でいくらオンラインを強化しても、顧客はオンラインの利便性を感じません。
ですが、次のような状況になればどうでしょうか。
- いつも担当してくれている美容部員から直接アドバイスをもらっているかのような、自分に合わせた情報がメールで届く
- 化粧のしかたや商品について気になることがあったら、店舗まで行かなくてもオンラインですぐに美容部員に相談できる
- いつもとは違う店舗を訪れた際、初めて接する美容部員なのに自分の好みや肌質をあらかじめよく知っており、適切なアドバイスをしてくれる
- いつもとは違う店舗でも、いつも担当してくれる美容部員がオンラインで相談に乗ってくれる
こうしたことが実現できれば、顧客はオンラインかオフラインかを気にすることなく、自分のためだけにパーソナライズされたサービスに満足してくれるはずです。
こうしたポイントが当てはまるのは、なにも化粧品販売に限ったことではありません。業界は違っても、すでにこうした顧客体験を提供することでOMOを実践している企業もあります。
すぐに思いつくところでは、スターバックスによるモバイルオーダーとモバイルペイメント。例えばこんな体験ができます。
スターバックスの「モバイルオーダー&ペイ」なら、注文の列に並ぶことなく商品を受け取ることができる。
SamaraHeisz5 / Shutterstock.com
あなたは目的地の1つ手前の駅で、スマホからお気に入りのカスタマイズでコーヒーの注文をしてモバイル決済で支払いを済ませます。目的地の駅に着いたら駅前のスターバックスに向かい、オーダー待ちの列に並ぶことなく注文済みの商品をカウンターで受け取ることができます(※6)。
これらの事例からもお分かりのように、OMOを実現するうえで重要な鍵を握るのは「データを用いたパーソナライズ」です。
ハイタッチ(人間による対面などの接点)ではきめ細やかな対応ができる一方で、多くの顧客にアプローチするには限界があります。他方、テックタッチ(メールなどテクノロジーで量産可能な接点)は多くの顧客にアプローチできますが、画一的なサービスの提供になりがちです(※7)。
そのためアフターデジタルの世界では、テックタッチに強みを持つ企業は今後オフラインを含めた人の手当て(ハイタッチ)が、かたや店舗などのハイタッチに強みを持つ企業はオンライン(テックタッチ)との有機的な融合が、乗り越えるべき課題となります。
資生堂に関して言えば、ハイタッチの文脈では自社の店舗や美容部員を最大限に生かしつつ、テックタッチともいえるDXの知見はアクセンチュアに支援してもらう。さらに、化粧品展示会のようなリアルな場でのイベントを通じてロータッチでも顧客の接点を持つ。そうすることで顧客にとって最適な体験を提供するOMOを実現しようと考えたのでしょう。
OMOを実装させることでデータ分析が可能になる
ところで、これほどの労力を割いてまでOMOを実装することには、どんな意味があるのでしょうか? 私が考える最大のメリットは、次のようにデータの分析ができるようになることです。
- 顧客のLTV(Life Time Value)を測定できる。CRMで顧客のID管理を行えば、顧客が将来にわたって自社にもたらす価値が計算可能に
- 例えばネット上に掲出した広告を経由して商品を購入してもらった場合、顧客獲得コスト(CAC:Customer Acquisition Cost)が容易に計算できるようになる
- CRMを行っていれば、過去に獲得した既存顧客をどれだけ維持できるか(売上継続率〔NDR:Net Dollar Retention Rate〕)が計算できる
- 顧客が継続的な購入をやめた場合も把握できる
この連載の第35回をお読みいただいた方なら、もうピンと来たでしょう。そうです、これら4つはすべて、サブスクリプションモデルの分析でよく使われる指標なのです。SlackやSansanのようなデジタルサービスを前提としたSaaSのビジネスモデルは多くの場合、これらの指標を使って顧客の獲得・継続を計測しています。
これが小売店舗だと、顧客の特定や継続率の把握が難しいという課題がついてまわるものですが、常時オンラインを前提とするOMOならSaaSのようなビジネスが可能になり得ます。
これこそがまさに、資生堂が「化粧品事業をDX化する」ということの意味合いなのです。
ここまで理解が進むと、資生堂がなぜパーソナルケア事業を譲渡することにしたのか、その理由も見えてきます。
TSUBAKIやuno(ウーノ)などは私たち一般消費者にとっておなじみの商品ですが、こうしたパーソナルケア商品は、化粧品とは違って顧客のID管理やCRMが非常に難しいものです。顧客はドラッグストアやスーパーやコンビニなどいろいろなチャネルで買いますし、専属スタッフと対面で話すこともまずありません。マス向けに広告を打つとなると顧客ID別にLTVやCACを計算するのは不可能です。
つまり、パーソナルケア事業と高価格帯の化粧品事業とでは、根本的にビジネスモデルが違うのです。
今後DX化を目指す資生堂にとって、化粧品事業にリソースを集中投下させる一方、パーソナルケア事業はファンドに譲渡して間接的に関わりを続けることでマーケティングを強化させようという意思決定は、いわば戦略上の必然だったのかもしれません。
グローバル展開に向けた布石
ここまで、資生堂のパーソナルケア事業の譲渡、アクセンチュアと提携しての化粧品事業のOMOについて見てきました。これらはどちらも「事業戦略」の変更です。
資生堂はこの事業戦略変更の発表の場で、あわせて「組織戦略」と「財務戦略」を変更することもアナウンスしました。
組織戦略については、デジタル人材の育成やジョブ型人事制度の導入。また、サプライチェーン拠点の再編や研究開発体制をカテゴリー別からブランド別に変更することも発表しています(図表3)。
(出所)資生堂「2020年実績(1-12月期)および2021年見通し」をもとに筆者作成。
財務戦略についても、過去最高益を出した2019年12月期と比較すれば向こう4年で売上高はほぼ横ばいとするものの、利益率は10%から15%へと、より筋肉質な財務体質を目指すことが分かります(図表4)。
(出所)資生堂「2020年実績(1-12月期)および2021年見通し」をもとに筆者作成。
具体的には、サプライチェーンを見直すことで原価を下げ、DX化を進めてデジタルマーケティングを強化することで販管費を下げる。それによって営業利益率を5%ポイント上昇させ、15%にすることを目指しています。
また、2023年までに生産性・効率性を2倍に上げ、在庫回転日数を200日以下にすることも目標に掲げています。在庫回転日数とは、在庫が売上に変わるまでの日数を計算したもの。DX化を進めて在庫の回転率を高めることで、より効率よくキャッシュ化しようというわけです。
さらに負債に関しては、今後500〜800億円ほど圧縮するとともに、最終的にはROEを18%までに上げることを目標としています。
こうした戦略の見直しを行うことで、前編で見てきたように、資生堂はさらなるグローバル展開を推し進めようとしているわけです。
資生堂は今回の改革を通じて、「世界で勝てる日本発のグローバルビューティーカンパニー」を目指すことを発表しています。パーソナルケア事業の譲渡も、化粧品事業のDXも、すべてはこの大目標への布石なのだと言えるでしょう。
DXを超えたCXのために
「DX」は近年日本のビジネスシーンでも日々耳にする重要キーワードです。多くの企業がDXの推進に取り組んでいますが、本質的な意味でのDXを実現できている企業はどれほどあるでしょうか。
経営共創基盤前CEOの冨山和彦氏は、オープンイノベーションを進めようとCVC(コーポレートベンチャーキャピタル、※8)を作ったり、イノベーションラボを作ったりするような取り組みは、DXに立ち向かうための本質的な解ではないと指摘しています。
そうではなく、会社で働く人々の生き方・働き方、価値観や文化までをも変革するコーポレートトランスフォーメーション(Corporate Transformation。以下、CX)が重要だと提言し(※9)、CXの前と後とで組織がどう変わるのかを説明しています(図表5)。要するに、CXは企業の最も根幹的な部分の改革であり、そのスケールも組織に与えるインパクトも、文字通り大変革と呼ぶべきものなのです。
この図に、ここまで考察してきた資生堂の動きを当てはめてみると、今回の同社の戦略変更はまさにCXを図ってのものであることがお分かりいただけるでしょう。
今回の資生堂の一連の発表は、単なる事業ポートフォリオの見直しではなく、究極的にはグローバル展開の強化を視野に入れた戦略の変更と言えます。
この資生堂の取り組みが、単なる表面のデジタル化に終わらず、冨山氏の言う「真のCX」への第一歩となるか——今後の資生堂の展開に注目です。
※1 OMOの考え方については『アフターデジタル』に詳しく書かれており、本稿でもOMOについては本書を参考にしています。
※2 カール・シャピロ、ハル・ヴァリアン『情報経済の鉄則』(日経BP、2018年)を参照。
※3 O2Oについては、アンドリュー・マカフィー、エリック・ブリニョルフソン『プラットフォームの経済学』(日経BP、2018年)を参照。
※4 グーグルチャイナの元CEOの李開復氏によると、OMOが成り立つためには次の4つの発生条件が必要だと指摘しています。(1)スマートフォン及びモバイルネットワークの普及(2)モバイル決済浸透率の上昇(3)幅広い種類のセンサーが高品質で安価に手に入り遍在する(4)自動化されたロボット・人工知能の普及。この4つの条件が満たされることで、「リアルチャネルであってもオンラインで常時接続し、その場でデータが処理されてインタラクションすることが可能になるため、オンラインとオフラインの境界は曖昧になり、融合していく」と李開復氏は述べています。
※5 藤井保文『アフターデジタル2』(日経BP、2020年)を参照。
※6 スターバックスは今後さらに利便性を高め、パーソナライズされたデジタル体験を強化していくとのことです。スターバックス プレスリリース「レジに並ばず、商品を受け取るだけの事前注文決済サービス「モバイルオーダー&ペイ」が全国直営のスターバックスで対応開始」2020年11月30日。
※7 ニック・メータほか『カスタマーサクセス——サブスクリプション時代に求められる「顧客の成功」10の原則』英治出版、2018年。
※8 CVC(コーポレートベンチャーキャピタル)とは、広義には事業会社がスタートアップ企業に直接投資を行うことをいいます。CVCの類型としては、①企業が自己勘定で投資をする、②CVCとなるファンドを自己資金にて単独で組成する、③自己資金に加え、外部投資家からも資金を集め、ファンドを組成する、といったパターンがあります。
※9 『共創』経営共創基盤、2020新春号、vol.33。
(執筆協力・伊藤達也、連載ロゴデザイン・星野美緒、編集・常盤亜由子)
村上 茂久:株式会社ファインディールズ 代表取締役、GOB Incubation Partners株式会社CFO。経済学研究科の大学院(修士課程)を修了後、金融機関でストラクチャードファイナンス業務を中心に、証券化、不動産投資、不良債権投資、プロジェクトファイナンス、ファンド投資業務等に従事する。2018年9月よりGOB Incubation Partners株式会社のCFOとして新規事業の開発及び起業の支援等を実施。加えて、複数のスタートアップ企業等の財務や法務等の支援も手掛ける。2021年1月に財務コンサルティング等を行う株式会社ファインディールズを創業。