改めて理解する「ユニクロ」情報製造小売業を目指すファーストリテイリング

改めて理解する「ユニクロ」情報製造小売業を目指すファーストリテイリング

ファーストリテイリング

LifeWear(究極の普段着)というコンセプトを掲げ、ベーシックなデザインのアパレルブランドとして随一の存在感を誇る「ユニクロ」。

展開するファーストリテイリングは、今や2兆円を超える年間売上をあげる。世界3,527店舗(2021年8月末)という巨大な販売網を持ち、時価総額は6.4兆円。日本を代表する企業であるだけでなく、アパレル業界で世界3位の売上を誇るグローバル企業でもある。 

そんなファーストリテイリングも、原点は地方の小さな紳士服店。会長兼社長の柳井正氏は、父の紳士服店を継いだ二代目社長だ。 

会社を継ぐために経営者として英才教育を受けたわけでは全くなかった。なぜファーストリテイリングはこれほどの巨大企業になったのか。そこには、ベンチャースピリットを失わない柳井氏の判断力と、社員や取引先などとの強い結束力がある。

本記事では柳井氏とユニクロが辿った道を振り返り、ビジネスモデルや成長モデルまでを改めて解説する。ファーストリテイリングの過去・現在・未来について、時系列順に確認していこう。

紳士服店をカジュアル衣料チェーンへ転換

ファーストリテイリングの本社は、今も山口県にある(本部機能は東京)。ルーツは1949年、柳井正氏の父・等氏が、山口・宇部で開業した紳士服店「メンズショップ小郡商事」。1963年に小郡商事株式会社を設立した。 

柳井正氏は、メンズショップ小郡商事が開業した1949年生まれ。早稲田大学政経学部を卒業後、ジャスコ(現イオン)に就職するが、1年も経たずに退社した。1972年には実家の小郡商事に入社。入社翌年には第1次オイルショックがあり、高度経済成長期が終わるころだった。

1980年代に紳士服チェーンとして青山商事やアオキ(現AOKIホールディングス)が台頭。1着7~8万円で販売されていた紳士服スーツを3~4万円で販売するという価格破壊を起こした。そうした背景もあり、小郡商事は紳士服からの転換を図ることになる。 

もう一つ、1980年代に起こっていたのがDCブランドブームだ。大量生産の既製服に対抗し、定番を作らない多品種少量生産を志向。BIGIやY‘s、コム・デ・ギャルソンなどが台頭し、高級アパレルが飛ぶように売れた。 

ブームの只中で柳井氏が生み出したのは、手の届きやすい価格帯のカジュアル衣料に特化した「ユニクロ」だった。なお、ユニクロというブランド名は、「ユニーク(独自の)」「クロージング(衣類)」「ウェアハウス(倉庫)」の略。 

1984年、ユニクロ1号店となる「ユニクロ袋町店」を広島市にオープン。続く85年には、現在のユニクロの店舗の原型となる初のロードサイド店を下関市に出店。柳井正氏は1989年、小郡商事の社長に就任した。

当初はユニクロも、NB(ナショナルブランド)を扱う小売店だった。

業界における転機となったのが、1987年に米GAPが自らを「製造小売業(SPA)」であると宣言したことだ。中国の現地メーカーと委託契約することで、安くて品質の良い商品を大量に作ることができるようになった。

柳井氏も中国生産によるSPAを確立したチェーン展開を模索、1990年代後半にはPB比率も高まっていった。当時一般的だった対面販売ではなく、セルフ販売方式も採用。これが現在も続くユニクロの原点となる。

1991年には「ファーストリテイリング」に商号変更。社名の由来は、FASTの「速い」と、RETAILINGの「小売」の掛け合わせで、「ファーストフードのように早い小売業」という意味である。

1994年広島証券取引所に、1997年には東証第二部に上場した。自社企画商品の開発体制の充実のため、東京事務所を開設したのもこの頃だ。 ユニクロが地方のチェーン店から、全国進出する急成長の時代でもあった。

「ユニクロ」の世界展開

驚異的な成長を遂げることになったのは、1998年。フリースが大ヒットしたタイミングだった。

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